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「齊藤 知一郎 画伝」について

鱸 利彦
 

 この絵は、「齊藤知一郎伝」の著者北川桃雄氏(共立女子大教授)とともに、同大学文芸学部の教授であった鱸(すずき)利彦画伯が、武者小路実篤氏著「評伝齊藤知一郎」と北川氏の「齊藤知一郎伝」を読み、感激して描かれたものです。
 この絵それぞれの説明は、武者小路氏の「評伝齊藤知一郎」から引用されてあります。

(編集注) この画伝は齊藤知一郎翁生誕100年記念および大昭和製紙50周年記念事業として刊行されたものです。


『境遇が人間をつくるのは事実であろう。だが人間が境遇をつくるのも事実である。…』
知一郎について、武者小路実篤氏は「評伝齊藤知一郎」の冒頭、こう書き出している。


お母さんが、よく働く人だったせいか、知一郎も家の仕事をよく手伝った。親を少しでも楽にさせたいということと、自分が働くことによって家を興そうという、子供らしい健げな気持があったのだろう。


背負うのには多く取りすぎた薪の束を、山道をころがして運びはじめたが、あやまって谷に落としてしまった。やっとの思いで引き上げて持ち帰った時は、日はとっぷり暮れてしまっており、母親の心配は一通りではなかったが、辛抱強い性格と思ったことは何処までもやり遂げないではいられない、意志の強さを示す一つの出来ことであった。


13歳の頃、自分で竹行季を作って売ることを考え、機械を買い入れた。何事にも熱中する知一郎は、毎朝3時には起きて作業にかかった。竹を割る音がすると母が起き、続いて弟達も起き出し、皆で力を合せて作業を続けた。


農閑期に、買い集めた藁を納入先の製紙工場に運ぶ父親の、荷車の後押しに精を出していた或る日、工場の若者から軽べつした言葉を浴びせられ、子供心にもこのくやしさを忘れることができず「今に見ろ」と心の中で叫んだ。

14歳の時、父に代って駿東郡須山(現在の裾野市)へ三椏(みつまた)の買付けに出かけて契約を済ませ、その夜は須山に泊って翌朝4時に宿を出た。月が出て明るかったが、冬の夜道は、あまり気持のいいものではなかった。子供心に、大任を果した喜びで、無理にも元気を出して歩いていた。しかし、行けども行けども、見覚えのある村に出ない。道を間違えたらしい。

やっと出逢った馬方に聞いて驚いた。正反対の方向に歩いていたのだ。ここまで来たらそのまま逆の方向の町に出て、そこから汽車に乗った方がいい、と言われ、さすがの知ー郎も泣き出し、小走りに歩いた。

佐野駅(現在の御殿場線裾野駅、当時は東海道線だった)から鈴川駅(現在の吉原駅)まで汽車に乗ってやっと家にたどり着いた時の嬉しさを、いつまでも忘れることができなかった。

ふとしたことから賭事に手を出した知一郎に、父は「勘当するから出て行け」と腹の底から怒った。この姿を見て、母は一所懸命とりなし、妹は寝床で手を合せた。最後には知一郎も反省したが、このことがあってから遊ぶことをぷっつりやめて、夜昼なく働く、以前の勤勉な生活を始め、家族を安心させた。

夏はお茶の売買、冬は稲藁の納入と朝早くから夜遅くまでよく働き、178歳になると1人前以上の働き者になった。その頃、好んで「近江商人」とか「若尾逸平伝」などを愛読し、感心した個所を弟や妹に読んで聞かせた。

若尾逸平=幕末、明治期の実業家。山梨県生まれ。19歳で江戸に出て種々の事業に成功。山梨貯蓄銀行創立、甲府市長、貴族院議員。


大正98月、製茶工場から出火し、工場と物置の一部が焼失した。知一郎にとって、その打撃は大きかったが、悲観ばかりはせずに天が与えてくれた一つの機会と受けとめた。この出来事が、後日製紙業へ転出する切っ掛けとなった。

大正13年、ある製紙工場が火災を出したが、その焼けたパルプを買わないかという話が持ち込まれた。

その焼けたパルプを見て、外側はまっ黒だが中の方は十分使えると判断して即契約。結局、買い値の数倍の利益を上げ、その利益が事実上、製紙業への出発の経済的基礎になった。

「お得意様の満足を得るような品物は、自らメーカーの立場になって考える必要がある」紙の仲買からメーカーに転出した動機を、こう語っている。

大正14年、運転休止中の工場を友人数名と共同で引き受け、丸共製紙として「白ちり紙」を抄造、数ヵ月後に全株式を引き受けたが、これが機械製紙へ進出する第一歩となった。


知一郎の頭の中には、士場の隅々までが克明に入っており、気が付いたことがあると、夜中でも工場を見回り、従業員に指示を与えた。


或る晩、工場内を見回っている時、疲れたのか腰かけたまま眠っている従業員を見つけると、風邪を引くといけないからと、黙って損紙を集めて体にかけて帰ったが、その事をあとで知った従業員は、社長のやさしい気持に感激したという。

天津に、日支合弁の製紙会社をつくる夢を持っており、昭和15年、その下検分のため中国を旅した時のこと。
天津市で、大いばりで人力車から降りた日本人から車夫に少額紙幣が反故同様に手渡されているのを見て「日本も今にああなるよ」と叫んだ。
後年、日本にとって不幸にも、この勘が当たることになる。



昭和
18年、頼まれて田子浦工業学校の経営を引き受けたが、財政的には苦しく、毎月補助をしなければならなかった。知一郎は、理事長として学校を盛り立てるために常に努力を続けてきたが、更に充実させるためには県立に移管すべきであると考え、県知事をはじめ関係者と度重なる折衝の末、昭和32年認可され、自身が頭にえがいていた比奈の高台に新校舎が建てられ、その名も静岡県立吉原工業高校として設立。田子浦工業以来9,110人の卒業生が巣立っている。

「あの音を聞くと、一寸の間でも耳をすます気になって、いい気持になり、心が洗われるような気がしますよ。やっぱり造ってよかったと思っています」

「知恩鐘」と命名されたこの鐘は、戦争のため身魂を祖国に捧げた戦病没者や、会社殉職者の霊を弔い、また、その音を聞いた郷土の人々に新しい日本の精神と正しい社会道義の心を奮い起して貰いたい、との願いをこめて、菩提寺玉泉寺に寄進された。

昭和234月、沼津の御用邸に滞在中の貞明皇太后陛下が鈴川工場に御来臨された。

会社の経営方針や生産状況の説明を聞かれた後、工場の中を熱心にご視察され「齊藤さん、どうぞ増産して下さいよ」というお言葉に、知一郎は涙ぐむ程感激した。

「木を使うものは、木を育てなければならない」という考えから、自ら山に入り陣頭指揮して造林事業に力をそそいだ。

昭和24年の春、6町歩から始まった造林事業は、昭和36年には10,000町歩余と拡大し、飛躍的に業績をあげていった。

日頃、業界はもとより、地域の発展、公共事業、育英等に意を注いできたが、産業、公益、教育それぞれの功労により、緑綬、藍綬、紺綬の各褒章を受章した。



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